水清ければ魚棲まず
本来「水があんまり清らかで澄み切っていると隠れる場所がなくて魚が棲みつかなくなるように、ひともキチンとしすぎていると人が寄り付かず孤立する」といった意味のたとえ話だが、この言葉を思うたび、瀬戸内海の話を思い出す。
高度成長期、工場や家庭の排水で海や川の水はかなり濁っていた。瀬戸内海には、大量の植物性プランクトンが発生し赤潮が発生、海の酸素を消費し浜辺には大量の死んだ魚が打ち上げられていた。
近畿や中四国、九州の沿岸自治体は瀬戸内海をきれいにするよう求め、1973年に瀬戸内海環境保全臨時措置法、78 年には同保全特別措置法(瀬戸内法)が制定された。プランクトンの栄養が増え過ぎた「富栄養化」解消に向け、「栄養塩」とされる窒素やリンの濃度も規制されるようになった。
ところが今度は漁獲高がダダ下がり、質、量とも全国屈指の養殖ノリが色落ちするようになった。2015年には国会の議員立法で改正瀬戸内法が成立。美しさを求めるだけでなく「豊かで美しい海」を目指す政策へと転換された。
兵庫県は条例を改正し、窒素とリンを減らそうと規制してきた上限値に加え、減らし過ぎないために県独自の下限値を設けた。
海の豊かさは自然のものではなかったのかと勘ぐってしまう。
人間の利益のためなら、自然なんてどうとでも変えることができるのだ。
水清ければ魚棲まず
を思うとき、いつも人間の身勝手を連想してしまう。